朝鮮王朝の外交文書と印鑑

2002年、私は所属大学院に修士論文を提出した。その内容は、朝鮮王朝(1392~1897。以下、単に朝鮮とする)が15世紀に周辺諸国に送った外交文書に関するものであった。しかし面接試験の直前、指導教授に呼び出され、「これでは博士課程への進学は無理である」という旨を伝えられた。提出した論文を改めて見直してみると、論点が明確ではなかったことに気づかされた。そこで論点をもっと絞らなければならないと考え、目を付けたのが、朝鮮が日本・琉球に送った外交文書に使用した印鑑が私印(印文は「為政以徳」)であることであった。当時の朝鮮は、中国(明朝)の「諸侯国」を自任しており、普通に考えれば、日本や琉球に対しては、中国から下賜され、中国の「諸侯国」としての象徴の意味を持つ「朝鮮国王之印」(国王の官印)を使うのが当然であると考えられたからである。

朝鮮が日本・琉球宛の外交文書に私印を使ったことについては、先行研究でも指摘されていた。しかしその理由については深く掘り下げて議論されていなかった。そこで私は、様々な角度からその理由を探し出そうとし、一方で『朝鮮王朝実録』という当該期の朝鮮の基本史料をしっかりと読み込もうとした。そうした作業を進める中、『朝鮮王朝実録』のある一つの記事が目に飛び込んできた。

その記事とは、朝鮮王朝第四代国王の世宗(位1418~50)は先祖とゆかりの深い寺である興天寺の修築を行いたいと考えたが、国王が仏事に関与することは、儒教を建国理念とする朝鮮においてはタブーに属するため、世宗は興天寺の修築に関する自らの命令書に、官印ではなく、私印を捺すことにより、興天寺の修築は、あくまでも先祖のために行う“やむを得ない行為”であることを示そうとしたという内容のものであった(『世宗実録』巻68、17年5月辛卯条)。

この記事は、外交とは全く関係のない史料である。しかしこの記事からは、当時の朝鮮では、本来政治的に行うべきでない行為を行わざるを得ない場合、命令書等に私印を用いることにより、その行為を“やむを得ない行為”として位置づけ、正当化できるという考え方の存したことが看取されるのであり、それを敷衍することにより、朝鮮が中国以外の周辺諸国と外交を行う際、中国の「諸侯国」として一種の“憚り”を感じ、その“憚り”を解消するため、朝鮮は意図的に外交文書に私印を使い、本来は行うべきではない周辺諸国との外交(「私交」と称される)を“やむを得ない行為”として正当化しようとしたという理解を得ることができたのである。

2003年、私は如上の理解をもとにして修士論文を改めて提出し、博士課程に進学することができた。この理解はその後も、私の研究における軸足の一つとなった。一つの記事の発見がその後の研究に決定的な影響を与えることになるのであり、常に様々な史料と向き合っていなければならないという教訓にもなった。

国際文化学科准教授 木村 拓(韓国朝鮮史)